言語以上に大切なもの

あなたは自分の感情をすべて言葉で伝えることができますか?

このモヤモヤをどうやって相手に伝えたらいいのだろう?言葉であらわせない気持ちがあるなど、世の中には言葉で伝えられないことが山のようにあります。

別に言葉がなくても、悲しんでいる人の写真を見れば、その人の気持ちが理解できることもあります。音楽を聴くだけで、作曲家の喜びが伝わることもあります。

あなたの気持ちを相手に伝える手段は言語だけではありません。絵や音楽やジェスチャーなど、あなたの気持ちを表現する機会は無限大にあります。

音楽なら名曲とか、名画などあると思いますが、駄作との違いはなんでしょう。

まっすぐさだと思います。自分の気持ちをすべて見事に表現できれば名曲なんだと思います。多少下手でも気持ちが入った絵を描いたら名画なんだと思います。

天才と秀才の違いですかね。秀才は、頭で考えて、テクニカルに物事を表現することが得意ですが、あくまで客観的な感情を使う。例えば、悲しそうな女性の顔を描くときも、秀才はすごい描写技術でまるで本物の写真のような絵を描く。さらに、その絵の女性が悲しそうに見えるように描く。誰が見ても世間一般の悲しそうな顔を見事に表現する。このような絵はどこかみんなの望んでいるものであり、それを描けるのは大きな才能だ。しかし、天才は違う。描写技術など一切学んでいなくても、世間一般でいう悲しそうな女性の顔など知らなくても、愛するたった一人の女性の悲しそうな顔を見て、自分の目に映った悲しさをそのまま絵にできる。どんなに下手でも、自分の感情を100%表現できるのは天才だ。

みんな心の中に、他者に伝えられないが、伝えたい気持ちというものを持っている。この場合の他者とは自分自身も含む。つまり、自分でも理解できない感情が自分の中にあるのが人の常だということだ。このような感情を自分自身で理解できないために苦しむこともあるし、幸せを実感できないこともある。どうしたって感情を形にできず、自分を理解できない人間が凡人だ。多くの人が共感するだろう。怒りでもなく悲しみでもなく、どうしても言葉では表現できない感情が沸き上がる時があるでしょう。人は自分の感情が理解できないため、その感情をどう対処すればよいのか分からないです。

プラスの感情を把握できていない場合は、自分の幸せを認識できず、人生において損をします。

マイナスの感情を理解できないときは、理由は分からないストレスに悩まされ不幸になります。マイナスの感情は厄介で最悪死においやられるケースもあります。

 

正直言葉で理解できる感情はほんの一握りで、ほとんどの感情において別の手段で認識しております。

天才は、このような無数の感情を言葉以外で表現することが多々あります。

感情を絵にしたり、音楽にしたり、ダンスにしたり、またもや数字で表現するかもしれません。あなたが、もし多趣味な人間ならば、あなたの感情を何らかに手段で表現して、そこから幸せを感じたり、不幸の原因を取り払うことができます。

教養力というのは、自分の感情を豊かにして、コントロールできる力だと思っています。

たくさんの音楽や絵や哲学などに親しんでいると、多くの人が表現した感情を理解することができ、あなたの糧になります。

つらいことがあったとき、場合によっては、複雑な哲学の概念にあてはめて理解できたり、好きな音楽を聴くことで落ち着いたりします。あなたの感情と同じ感情を表現したものに触れるとき、人は共感を感じ、自然とリラックスするものです。

失恋したときに失恋の曲を聴くと共感する感情に似ています。

人は得たいの知れない感情に不安を覚えますし、分からないものを取り払うこともできません。

何らかの形で、同じ感情を持った人間の作った音楽や絵などを通じて自分の感情を認識できた時、すごく幸せを感じたり、不幸を取り払ったりできます。

 

天才は、感情を形にする化け物です。目で見たものを感じ、法則性を見つけ、数式で表現する天才もいれば、自然界で発生する音から感じるものを音楽にするものもいます。

見たものをそのまま映すことは簡単です。しかし、目で見た風景は、人間の目と脳を通過すると、きっと違ったものに見えるんです。だから天才が描く夕日は実際の夕日以上に夕日らしく見えるのです。

私たちの頭の中にある夕日は、現実の夕日ではないです。

人間の目と脳を通過して脳内で映る夕日なんです。それを目の前に絵で表現されると今まで漠然としていた夕日の情景がはっきりと認識されます。

音もそうです。自然界で鳴っている音は、実際の音と異なり、人間の耳と脳を介して脳内で響きます。この音は凡人では再現できないが、実際に鳴っている音とは異なるのです。

この音を様々な楽器で奏でたものが音楽です。きっとあなたが音楽を聴いて、情景が頭に浮かぶのは、その音楽がその映像を作っているわけではないのです。

聴いている音楽の1つ1つの音は、あなたの人生のどこかで自然に耳に入ってきているのだけど、無意識に聞き流している音だったんです。

きっとカエルの大合唱が聞こえたら、あなたは夜の田園風景を思い浮かべるでしょう。それはあなたが過去にその風景の中でその音を聴いていたからで、その音をしっかり認識して聞いていたからです。

例えば、天才がそのカエルの合唱の音と稲のかすれる音と誰かの歩く音と風の吹く音などをすべてミックスして音の音色を変えて、様々な楽器で合唱すると、全く違った音楽になるでしょうが、あなたは目を閉じると、どこかの夜の畑を思い浮かべるでしょう。実際のカエルの大合唱の音よりも心地よく、なぜか落ち着くのです。

それは実際の自然界の音ではなく、自然界の音が人間の脳内で再現されるときの音を、実際の楽器で再現しているからです。そのような音は自然界に存在しないのですが、どこか自然界の音以上に自然界を感じられ、母なる大地につつまれる気持ちになるのです。

コーラガムには、一切コーラが入っていないのに、コーラ以上にコーラを感じたり、ぶどうあめの匂いを嗅ぐと、実際のぶどう以上にぶどうを感じることに似ています。本物のぶどうを絞った生のぶどうジュースより、人工のぶどうの一切入っていないぶどうジュースのほうがぶどうらしいと思う人も多いですからね。いかに食品業界は、人間の味覚を再現する天才かよくわかります。あなたの頭の中にあるぶどうは、既に他の人が頭の中で知覚してイメージしたぶどうだと思います。人間はほぼ同じ遺伝子で構成されており、他者が認識するぶどうとあなたが認識するぶどうはほぼ同じですが微妙に違います。

あなたは自然界で見かけるぶどうを認識したときの頭の中のぶどうよりも他者が認識して、化学的に再現したぶどうの味のほうが本物のぶどうと錯覚を起こしています。

生きるって本当に難しく不思議です。あなたはあなた自身の意思によりあなたの5感でこの世界を感じていると感じているようですが、普段他者に与えられた情報に惑わされており、自然界に存在するものを、そのままで感じる能力が欠如され、だれかの認識した自然界をテレビなどを通じて与えられているだけです。

例えば目を閉じてアメリカのイメージをしてみてください。きっとテレビで見たことある映像が頭をよぎるでしょう。私は実際にアメリカで暮らしたことがありますが、それでもなお、実際に見た映像よりもテレビで見せられた誰かが編集した実際にはあまり見ることができないようなアメリカの映像が頭の中にあります。

テレビの映像は実際の映像の録画であることが間違ないないですが、やはり加工されていたり、めったに起こらない気候条件などで撮影されているため現実を見ると落胆することがあります。

世界の観光名所の写真なんて最たるもので、完全に架空の世界です。

例えば、グランドキャニオンの写真があると思いますが、もちろん実際見た時も感動しますが、事前にテレビなどの映像を見ていると、実際がしょぼく見えて落胆することが多々あります。

長くなったが、言葉では説明できないものは、言葉以外の方法で表現することになるが、

誰かの認識を通過した音や絵は自然界の実際のものとは全く異なったものになるし、あなたの内部に存在する言語化できない感情は、あなた自身が言葉以外の音や絵やダンスなどで表現し、認識するか、だれかが形にしたものを通じて自分の感情を認識するしか方法がないとのことです。

但し、だれかを介して何かを認識することは、あなたの感性ではない他人の感性により、この世の中を認識することだと理解しましょう。